エフエムひめ歴史ブログ

このブログはエフエムひめが開局してから5年以上にになり局長が過去の歴史を語る歴史写真館です

エフエムひめが出来るまで

さてさて第二弾の続きを書かせて頂きますが、今回は3月中旬からの経緯を書かせて貰います。

工房も片付いて大分と奇麗になりましてここから何を作るかを考えてた時期でもあったんですね!芸事も潮時でうだつも上がらん自分にこれからの事を考えた時になんとなくですが、たこ焼き屋や駄菓子屋とかやろうかなとただぼんやりと考えてました。

でも、こんなに広いねんから横の場所も有効利用して劇場も作ればより人が集まるかなと思っていたのが最初でしたね。

でも、立ち上げ資金など毛頭ないからどうするか悩んでいたら、当時叔父さんの友達が知らせを聞いて尋ねに来たんですが、この方と色々と話していたら「あんたも大変やろ」と10万円の香典を頂いた。

その方からお返しはと聞くと要らんからあんたの夢作りなはれとその方は言いまして有難く頂く事にしましたが、その方は叔父さんの友達でしたが、名前も名乗らず帰っていきましたね。

善は急げという事で10万円の香典を資金にして設計図を自分なりに書いてたこ焼き屋の店をこの工房の跡の土間に作る事に決めました。

設計図が出来たら今度は木材やら道具が必要ですが、でもここは元々大工さんの工務店ですから材料は結構残っている。

この木材を使って早速自分で大工仕事しながら理想のたこ焼き屋の店を作る事に決めました。

そして、この大工仕事を3月末から4月中頃まで毎日来ては作業してましたが、これが思いの外に楽しくて自分の理想を求める為に憑りつかれた様に作業していたのを覚えてますよ。

最初はこの様に衝立を作り、それから徐々に掘っ立て小屋への製作へと移って作り出したが、我ながら大工作業するのも楽しいし、作ってるとほんとに時間忘れるなと思いながら作ってましたね。

段々と形になっていく様が本当に面白くて一番この時が人生で一番楽しかったのかも知れないな。この経験から年を取ったら山に篭って掘っ立て小屋作って自然と住みたいなと考えていた程でしたね。(今はもうあの考え方から変わって無理というのになりましたがね。)

そして、同時進行で劇場作る事にもなり舞台作成へと動きましたが、この舞台も余りの材料利用したのとなくなればコーナンへ買い出して買ってましたね。

そして、4月入った頃にはみるみるうちに建物が形になっていきました。

もう壁も作られて、たこ焼き屋らしい形が出来て来ましたよね!この時はもうわくわく感が止まらず作ってる時に我を忘れてましたわ。

劇場の壁作りもこの様な感じで作ってる時にどうしょうかとか色々と考えながら作ってましたけど、この劇場は設計図もなければ全てアドリブでしたね。

そんな頃にうちの姪っ子と母親が労いに来たのを覚えてますわ!母親の実家なんですが、形が変わった事で驚いてましたけど、その母親も2024年に亡くなりました。

殆どが木材などで作られて形が作られていく事にこの時は本当に感動したし面白かったですね!もう人生であんな経験はもうないと思いますけど、それがエフエムひめを出来るまでの歩みだったと思うと鑑みる事だと思います。

今回もこれぐらいにしてまた第三回の記事もお楽しみくださいませ!!

エフエムひめを創める経緯を語る

皆さんいつもエフエムひめをお聞き頂きありがとうございます。

エフエムひめの局長の本庄強でございますが、皆さんにエフエムひめをより知って貰う為にエフエムひめが出来た経緯や歴史などをこれからこの歴史写真館と共に語り尽くしたいと思いブログを立ち上げました。

伝説と化したこのミニFMネットラジオ局はひょんな事から出来たのが最初の始まりなんですが、それをより詳しくお話ししたいと思いますので是非お読み下さいませ!!

(クリックすると写真は普通サイズで見れます)

2019年の冬の寒い時期で2月25日辺りだと思いますが、西淀川警察から本庄の携帯に電話がかかって来たのが事の発端でした。

本庄の母方の家系の叔父さんが風呂場で水死体で発見された事を警察から聞き警察署の安置所に置かれていますので引き取りに来て下さいとの内容でした。

兄貴と一緒に安置所へ行って死体を見た時の衝撃は今でも忘れられませんが、叔父さんが袋詰めにされて死体を見ましたが、あれは何とも言えない様な感じでしたし、あの事が何かを始める原動力だったのかも知れません。

葬儀もせず2日後には焼き場まで持って行ってお骨にした後に、叔父さんが先祖代々から引き継いだこの家を一人で守って来た姫島の旧ひめに母と兄と本庄で集まって家族会議を始めました。

お骨は先祖の仏壇に供えた後に部屋を探索しましたが、膨大の遺品が残っていて片付けするのも費用が掛かるし、色々と話した結果!!兄貴がお前はこの場所から家近いねんから使えるなら使えと言ったのが切っ掛けだったんですね。

ちなみにこの家は元々工務店で先祖から引き継いだ家を昭和20年にうちのお爺が工務店として開業し、叔父さんも後を継いで工務店していたが60歳になってから廃業していた。

部屋の作りは京都と一緒の古民家で大工さんなんで土間に工房があって奥に住処の部屋があり、庭は倉庫として土工関係の道具一式が置いてたり木材や足場の丸太など様々なものが置かれていた。

それを本庄が引き継いで遺品整理を始める事になり、毎日何かに取り付かれた様にこの姫島へ通って一人で遺品整理したのがスタートだった気がしますけど、ここから怒涛の整理作業が続きました。

こういう工業機械が多かったので引き取る業者を探したり、木材も裏庭で暖をとる為に燃やしたりして何せお金がなかったので奇麗にするまでに約6カ月は掛かったかなと思います。

一週間で正面の土間の所は大分と片付けしましたが、大量のごみ・大量の道具類が積まれてましたが、それを何とか無料で渡したり木材類はチップなんで風呂屋に渡したりしてしていきましたわ。

約2~3週間はここまで奇麗に片付けしましたが、これを半年掛けて少しずつごみを片付けしたのはこの当時しんどかったけど、何かどことなく面白かった様に当時を振り返りましたね。
まだまだ書く事は一杯ありますが、この後はまたの日に書こうと思いますので、引き続きエフエムひめの歴史写真館をお楽しみ下さいませ!!