エフエムひめ歴史ブログ

このブログはエフエムひめが開局してから5年以上にになり局長が過去の歴史を語る歴史写真館です

ミニFMを始めた切っ掛けの原点とは・・・

皆さんお久しぶりのブログを書きますが、大分と時間が経ちましたけど久々の投稿です!今回の投稿はテーマをミニFMの原点という話題で書きます。

実はエフエムひめに楽園君が居ますが、彼がラジオ始めると聞いたので色々と技術提供したんですよ!もちろん機材なども提供したので彼が電波でラジオ始める事に後輩が有志ら出来た事に嬉しく感じました。

それで今回彼が初めて電波出した時にSNSで感激を載せていたのを見て自分も昔そうだったみたいに書こうと思いペンを執った訳です!初心を忘れるべからずって事で俺が昔ミニFMの技術もない頃からここまでどうやって来たのかを過去へ戻りたいと思います。

中学校の時に同級生らがラジオの話題をしていた事もあり、中学生時代から部屋にあったラジオを聞き出した事が最初かな!?当時俺の部屋にはテレビがなくラジカセしかなかったので殺風景な所に音もないのが寂しいと感じて聞き出したと思います。

当時はヤングタウン全盛期で鶴瓶・紳助・さんまなどの数々のパーソナリティートークで凌ぎを削っていた中にも特に俺が面白かったのは原田伸郎&笑瓶の水曜日が一番よく聞いていたな!また趣味で友達とか一人とかでラジオごっことかしてカセットテープで録って遊んだりもした。

その頃からラジオへの憧れが強くなり、中学校の時には暇で架空のタイムテーブル作りもしていたかな・・・そして、中三になったある時にエンドレスナイトを見たのが衝撃的でした!ある団地のある場所でミニFM放送なるラジオ局を開設との取材が放送されていた。

当時は80年代後半でミニFM局ブームが到来していた時で俺はそれを知らずエンドレスナイトを見て食い入る様にテレビを見てた記憶がありますね!俺もこんな事をやりたいと思っていたが、当時は財源もなく貧乏で知識もないし夢のまた夢でもありました。

元々放送業に興味はあったみたいで当時高校生の時に何故かアンテナを建てようとポールだけ近くのトポスで買ったのを覚えてます!!当時トポス久米田店というのがありまして、それでアンテナコーナーでポールだけ買って徐々に集めようと思ったんですが、それも挫折した。

当時放送に出たいとかやりたいとかの思いもあり、18歳の頃に吉本NSCへ入学した!当時右も左もわからんから芸人になってラジオ出れると思っていたのか?よく判らず取り合えず入学した事で芸人仲間も出来た事で俺のミニFM放送への動きが加速されました。

当時サンパウロ大釜というNSC9期生の芸人と知り合い、ラジオ談義に華を咲かせていた事でその先輩とミニFM出来んのかという話とか色々としていた様に記憶している。

それで色々と調べたらFMイコールという城北公園近くの赤川にある事を知り、その先輩と行った事でそこの技術を目の当たりに見ましたが、もちろん教えてくれる事などなかったので自ら調査して調べ上げたのだと思います。

それともう一つ当時わぁでぃという雑誌やったか、じゃ~ま~るという雑誌やったか?ソニー製のミニFMトランスミッターTMR-90が中古で売られているのを知って即買いました!その方と直接会って買ったんですが、当時待ち合わせ場所が梅田花月前だったのを今でも覚えていますわ。

これを最初自宅で電波出しましたが、結構飛んでましたね!!それから改造を重ねてよく飛ぶまでになりましたけど、当時このTMR-90はテレビアンテナのジャックだったのでそれを使ってテレビ用ブースター繋げてよく飛ばしていた事を覚えてますわ。

あるコミュニテイーFMである所からの依頼でミニFM局をやって欲しいという話があって俺がそこで色々な技術で電波飛ばしていましたが、結構飛んでまして1キロ以上は行ってたと思います。

後々、そこは電波監理局から注意もあって電波止めたんですが、それが切っ掛けで電波監理局との事もよくわかる様になったのが今の自分の知識ですかね!それから発信機は色々と各社出してましたし、手軽に入る様にもなった。

その頃にはネットが出てページで色々と調べたり、またマニアがよく解読書なるものもありましたからそれをよく読んでましたし、色々と勉強もしましたね!あと、2003年には西成の鶴見橋商店街でもミニFM放送局を開局しまして、それも俺が過去やってましたね。

そこからミニFM局をやるのはイベントミニFM放送局として会場内でやっていた事ですが、一番忘れられないのが泉南市にあるサザンビーチにてラジオ局をやっていたのは凄い覚えてるし良い思い出でしたね!その他にも今はもうなくなった妙見の森とか難波ハッチのコスプレイベント会場とかでラジオ放送をしていましたね。

その経験があって2019年3月にうちの母方の実家が空いた事でエフエムひめを始める切っ掛けとなった訳ですが、当時はエフエムひめが出来た頃はよく電波調査しに外へよくうろついてましたね!一番最初の頃からそういう電波で調査もしていた事もあり、やはり今でも電波が好きでよく聞きに回りますね。

そういう歴史があっての今の自分なんで大切にしたいと思いますし、これからも電波は微量でもやり続けたいと思います!それがハイパー氏いわく男のロマンだそうです。

エフエムひめが始動開始!!

さてさて、前回の記事から第三回目の記事を書かせて貰いますが、ようやくエフエムひめの形が出来てきた頃の話を語って参ります。

この頃になると岡崎翔と何かをしょうと動き始めた頃で、岡崎がネット販売の仕事をしていたのでうちの部屋に荷物を置いたりしてました!当時は息子にも頼んで手伝って貰ったりして段々と形成されてきましたね。

大工仕事の合間に当時この発信機を使ってミニFMの試験テストしてましたが、実はこれは中国製の商品で電波監理局ではアウトの発信機なんですね。

当時はお金もなかったのでこれを使ってミニFMを発信してましたけど、距離は700メートル以内で飛んでましたね。

この時期になると息子にペンキ塗装の仕事もして貰って壁一面にブラウンカラーに塗装しましたわ!なぜこの色にしたのかは阪急色のイメージがあってマルーンカラー合いそうだったという理由だったからです。

そして、この様に色も付けたので殆ど完成に近い部屋になってました!その前に、本当はたこ焼き屋やる予定でしたけど、保健所からの視察で厳しい意見言われたのとシンクとか買うのに金かかると思って路線変更したのが、このエフエムひめの始まりだったんですね。

そして、舞台も完成してミニステージなどに利用する形でこの場所を設けましたが、これも中々出来栄えは我ながらと当時は感心しましたね。

よくに言う住めば都とも言いますし、住めばこの場所の良さがあるというもんですけど、自分なりに想像以上のものが完成して感動しましたね。

表のサテライトも完成して色も全てマルーン色にして昭和のラジオというイメージに仕上げましたね!このイメージとしてラジオイコール昭和というのが俺の中であったんでしょうね。

そして、実際に機材を入れての試験放送が開始されましたが、これは当時記念すべき放送の為に撮った写真だったと思いますけどね。

この機材はすべてあまりものを再利用したのが始まりで、岡崎からパソコンを3台ほど貰って社長からWi-Fiを借りてミキサーやマイク類やコードは元々私物を使って始めたのがエフエムひめの始まりなんですね。

そして、ゴールデンウイークの最中でオープニングイベントを始めたのが切っ掛けでエフエムひめの開局記念は必ずゴールデンウイークにしていますが、これが最初の切っ掛けだったんですよね。

オープニングイベントをやり終えた後、ゴールデンウイークも終わりエフエムひめを開始しましたが、まず最初は誰も居ませんでした。

なので覚えて貰う為にも駄菓子屋を始めて子供たちの集まる場所で始めたのが最初だったんですが、この時は駄菓子も売っていたし、岡崎から提供して貰ったネット販売の在庫のあまりも安く売ってました。

そしてここから2~3カ月間は地獄の毎日で過ごしてい様に思う!毎日来ては一人で店番する毎日でしたし、何の変化もなくただフィラーだけの番組が毎日流れてて人を呼ぶにまで相当の苦労しましたね。

今回はここまででまた、その後のエフエムひめの記事を書きますのでお楽しみ下さい!!

エフエムひめが出来るまで

さてさて第二弾の続きを書かせて頂きますが、今回は3月中旬からの経緯を書かせて貰います。

工房も片付いて大分と奇麗になりましてここから何を作るかを考えてた時期でもあったんですね!芸事も潮時でうだつも上がらん自分にこれからの事を考えた時になんとなくですが、たこ焼き屋や駄菓子屋とかやろうかなとただぼんやりと考えてました。

でも、こんなに広いねんから横の場所も有効利用して劇場も作ればより人が集まるかなと思っていたのが最初でしたね。

でも、立ち上げ資金など毛頭ないからどうするか悩んでいたら、当時叔父さんの友達が知らせを聞いて尋ねに来たんですが、この方と色々と話していたら「あんたも大変やろ」と10万円の香典を頂いた。

その方からお返しはと聞くと要らんからあんたの夢作りなはれとその方は言いまして有難く頂く事にしましたが、その方は叔父さんの友達でしたが、名前も名乗らず帰っていきましたね。

善は急げという事で10万円の香典を資金にして設計図を自分なりに書いてたこ焼き屋の店をこの工房の跡の土間に作る事に決めました。

設計図が出来たら今度は木材やら道具が必要ですが、でもここは元々大工さんの工務店ですから材料は結構残っている。

この木材を使って早速自分で大工仕事しながら理想のたこ焼き屋の店を作る事に決めました。

そして、この大工仕事を3月末から4月中頃まで毎日来ては作業してましたが、これが思いの外に楽しくて自分の理想を求める為に憑りつかれた様に作業していたのを覚えてますよ。

最初はこの様に衝立を作り、それから徐々に掘っ立て小屋への製作へと移って作り出したが、我ながら大工作業するのも楽しいし、作ってるとほんとに時間忘れるなと思いながら作ってましたね。

段々と形になっていく様が本当に面白くて一番この時が人生で一番楽しかったのかも知れないな。この経験から年を取ったら山に篭って掘っ立て小屋作って自然と住みたいなと考えていた程でしたね。(今はもうあの考え方から変わって無理というのになりましたがね。)

そして、同時進行で劇場作る事にもなり舞台作成へと動きましたが、この舞台も余りの材料利用したのとなくなればコーナンへ買い出して買ってましたね。

そして、4月入った頃にはみるみるうちに建物が形になっていきました。

もう壁も作られて、たこ焼き屋らしい形が出来て来ましたよね!この時はもうわくわく感が止まらず作ってる時に我を忘れてましたわ。

劇場の壁作りもこの様な感じで作ってる時にどうしょうかとか色々と考えながら作ってましたけど、この劇場は設計図もなければ全てアドリブでしたね。

そんな頃にうちの姪っ子と母親が労いに来たのを覚えてますわ!母親の実家なんですが、形が変わった事で驚いてましたけど、その母親も2024年に亡くなりました。

殆どが木材などで作られて形が作られていく事にこの時は本当に感動したし面白かったですね!もう人生であんな経験はもうないと思いますけど、それがエフエムひめを出来るまでの歩みだったと思うと鑑みる事だと思います。

今回もこれぐらいにしてまた第三回の記事もお楽しみくださいませ!!

エフエムひめを創める経緯を語る

皆さんいつもエフエムひめをお聞き頂きありがとうございます。

エフエムひめの局長の本庄強でございますが、皆さんにエフエムひめをより知って貰う為にエフエムひめが出来た経緯や歴史などをこれからこの歴史写真館と共に語り尽くしたいと思いブログを立ち上げました。

伝説と化したこのミニFMネットラジオ局はひょんな事から出来たのが最初の始まりなんですが、それをより詳しくお話ししたいと思いますので是非お読み下さいませ!!

(クリックすると写真は普通サイズで見れます)

2019年の冬の寒い時期で2月25日辺りだと思いますが、西淀川警察から本庄の携帯に電話がかかって来たのが事の発端でした。

本庄の母方の家系の叔父さんが風呂場で水死体で発見された事を警察から聞き警察署の安置所に置かれていますので引き取りに来て下さいとの内容でした。

兄貴と一緒に安置所へ行って死体を見た時の衝撃は今でも忘れられませんが、叔父さんが袋詰めにされて死体を見ましたが、あれは何とも言えない様な感じでしたし、あの事が何かを始める原動力だったのかも知れません。

葬儀もせず2日後には焼き場まで持って行ってお骨にした後に、叔父さんが先祖代々から引き継いだこの家を一人で守って来た姫島の旧ひめに母と兄と本庄で集まって家族会議を始めました。

お骨は先祖の仏壇に供えた後に部屋を探索しましたが、膨大の遺品が残っていて片付けするのも費用が掛かるし、色々と話した結果!!兄貴がお前はこの場所から家近いねんから使えるなら使えと言ったのが切っ掛けだったんですね。

ちなみにこの家は元々工務店で先祖から引き継いだ家を昭和20年にうちのお爺が工務店として開業し、叔父さんも後を継いで工務店していたが60歳になってから廃業していた。

部屋の作りは京都と一緒の古民家で大工さんなんで土間に工房があって奥に住処の部屋があり、庭は倉庫として土工関係の道具一式が置いてたり木材や足場の丸太など様々なものが置かれていた。

それを本庄が引き継いで遺品整理を始める事になり、毎日何かに取り付かれた様にこの姫島へ通って一人で遺品整理したのがスタートだった気がしますけど、ここから怒涛の整理作業が続きました。

こういう工業機械が多かったので引き取る業者を探したり、木材も裏庭で暖をとる為に燃やしたりして何せお金がなかったので奇麗にするまでに約6カ月は掛かったかなと思います。

一週間で正面の土間の所は大分と片付けしましたが、大量のごみ・大量の道具類が積まれてましたが、それを何とか無料で渡したり木材類はチップなんで風呂屋に渡したりしてしていきましたわ。

約2~3週間はここまで奇麗に片付けしましたが、これを半年掛けて少しずつごみを片付けしたのはこの当時しんどかったけど、何かどことなく面白かった様に当時を振り返りましたね。
まだまだ書く事は一杯ありますが、この後はまたの日に書こうと思いますので、引き続きエフエムひめの歴史写真館をお楽しみ下さいませ!!